1984-01-10「米国とヴァチカンが外交関係を樹立」

今日のアメリカ史
外交関係樹立を伝える翌日(1984-01-11)のニューヨーク・タイムズ紙

The United States of America and the Holy See, in the desire to further promote the existing mutual friendly relations, have decided by common agreement to establish diplomatic relations between them at the level of embassy on the part of the United States of America, and nunciature on the part of the Holy See, as of today, Jan. 10, 1984.(アメリカ合衆国と法王聖座は、既存の相互友好関係を一層深めることを願い、アメリカ合衆国大使館と法王聖座使節職とのレベルにおける外交的関係の樹立を、共通の合意により決定し、この決定を本日1984年1月10日より有効とする。)

John Hughes, the State Department spokesman(アメリカ合衆国国務省報道官ジョン・ヒューズ)

場所/人物

発表はワシントンとヴァチカンとで行われた。

ヴァチカンのガンドルフォ城で教皇ヨハネ・パウロ2世と面会するロナルド・レーガン大統領とナンシー・レーガン夫妻、外交関係樹立に先立つ1982-06-07

米国側でヴァチカンとの外交関係の樹立を進めたのはカリフォルニア州選出のロナルド・レーガン大統領。この1984年は1期目の最終年であり、大統領選挙の年であった。

レーガン大統領は、自身が大統領に就任した1981年からヴァチカンへ、懇意のカリフォルニアの実業家ウィリアム・A・ウィルソン氏を大統領の私的な代表者として派遣し、外交関係樹立への調整を図っていた。

ヴァチカン側で米国との外交関係の樹立を進めたのはポーランド出身のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世(第264代)。就任から6年目のこと。

一方で教皇ヨハネ・パウロ2世はロマーニャ出身の司教ピオ・ラーギ(後に枢機卿)を使徒公使として、全世界のヴァチカンと外交関係未樹立の国家との調整を行わせており、特にこの時期にはワシントンに派遣していた。

先史

北アメリカ大陸にはプロテスタント勢力よりもカソリック勢力の方が先に入植を始めていたものの、英国国教会(≒王政)と闘争して敗北したピューリタン(カルヴァン派の影響を受けた先鋭的プロテスタント信者)が多く入植した。この英国王政に対する強い敵愾心は、独立戦争においても宗主国との決別・対立を推進する原動力ともなった。

ニューイングランドのピューリタンの手になる墓碑、通称「Death’s Head」マサチューセッツ州ボストンのグラナリー墓地

こうして米国では政治上も先鋭的プロテスタント理念が主流となった。後に19世紀アイルランドでジャガイモ飢饉の影響から大量のカソリック信者たちが米国に入植すると、カソリック勢力に数において劣勢に陥ることへの恐怖芯から、苛烈な差別感情とともに一部で激しい虐殺を招くなどした。

反カソリック派によって焼き討ちに遭うフィラデルフィアの聖アウグスティヌス教会、1844年

一方イタリアでは、ウィーン体制(オーストリアによる支配)に対する反発がイタリア統一運動へ結実したが、この過程で教皇庁は各地の教皇領を逸失していった。1861年にサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア王になっても、ローマにある教皇領は辛うじてフランス軍が駐屯することで防衛されていたが、そのフランス兵が普仏戦争の劣勢でローマ防衛の任から離れると、ローマ教皇領はイタリア王国軍に攻略され、とうとうローマ教皇領はイタリア王国の領地とされ、その首都となる。

お召し列車に乗る教皇ピウス9世、歴史上初めて写真に収められた教皇

以来ローマ教皇ピウス9世は「ヴァチカンの囚人」と自称して、イタリア王国の政府関係者を破門したり、国内のカソリック信者にイタリア王国への非協力を呼び掛けるなど、イタリア王国とヴァチカンとが断行関係に至った。

この膠着を打開し現在の「ヴァチカン市国」を確立したのは、カソリック勢力を票田として利用することを目論んだファシスト党ベニート・ムッソリーニ政権の遠謀であり、その狙いは見事に当たった。

ラテラノ条約の調印に臨むピエトロ・ガスパッリ枢機卿とベニート・ムッソリーニ、1929-02-11、ラテラノ宮殿

米国とヴァチカン

そういうわけで米国の伝統的な政治思潮に基づく限り、カソリックの総本山であるヴァチカンと外交を樹立する積極的な事情や要請は乏しかった。しかもヴァチカンを「市国」として担ぎ上げたのがファシスト党であったことも仇した。ヴァチカンからしても、守護勢力だったファシスト政権を打倒した連合国側に対する態度が快いわけはなかったし、戦後はナチスによるホロコーストに対して教皇庁が黙認の態度を通したという批判もあって、米国との外交的な距離は縮まらなかった。

この両者の関係を大きく変えたのは冷戦の激化であった。そもそも教皇庁は、宗教権威を(米国以上に)徹底的に否定するソヴィエト連邦政府に対して強い警戒心を持ち、米国のフランクリン・デラーノ・ローズヴェルト大統領に秋波を送った。これに応じた大統領は実業家出身の外交官マイロン・チャールズ・テイラーを特使としてローマへ送るなど、米国とヴァチカンとが接近した時期もある。しかし先述のとおり、その仲はムッソリーニが割いた。

さて1978年、ヴァチカンでは、ナチスからの迫害の悲劇と、共産主義政権からの搾取の悲劇を、自ら身をもって経験したポーランド出身のカロル・ユゼフ・ヴォイティワ大司教が、ヨハネ・パウロ2世として教皇に選ばれる。3年後の1981年、クリーンだが知名度が低く弱腰だった民主党のジミー・カーター前大統領を大差で破り、パワフルで知名度が高く強腰な共和党のロナルド・レーガンが大統領に就任。

ポーランド民主化運動における独立自主管理労働組合「連帯」の30周年を記念した壁画

故郷ポーランドの民主的労働組織「連帯」を支援しつつ全世界を雄飛しようとするヨハネ・パウロ2世、ソヴィエト連邦のアフガニスタン侵攻をみすみす許したカーター前大統領の失策を回復したいレーガン大統領。両者の思惑も一致し、1984-01-10、外交の樹立に結実したと言えよう。

今日の反省

アメリカ史、ではなく、これでは世界史なので、ちょっと記述量が多くなり過ぎた。

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