寧ろ鶏口と為るも牛後と為る無かれ

寧ろ鶏口と為るも牛後と為る無かれ 中国名句

大きなものの後ろについて甘んじているよりは、いっそ小さくともよいから頭に立ったほうがよい。

三省堂「366日の中国名句辞典」

英語話者の見方の例

Better to be a big fish in a little pond than a little fish in a big pond.

「大きな池の中の小さな魚よりは、小さな池の大きな魚でいる方が良い」

Are there English equivalents to a Japanese old saying, “Be the mouth of cock rather than remaining as the tail of ox”?
Ask Question

「組織」を「池の大きさ」で喩えつつ、その組織の中の「地位」を「魚の大きさ」で喩えている。スタンフォードのリサーチが標題に「大きな魚、小さな池」効果として挙げており「高い成績を収める学校の生徒は自身を同じレベルの仲間と比較して能力が劣っていると感じて自信を失う傾向がある一方、低い成績を収める環境にいる同じような成績を収める生徒はより自信を持っている」ことの例として「Big-fish-little-pond」効果と呼ぶという。

Stanford education study provides new evidence of “big-fish-little-pond” effect on students globally

しかし、この英語的な意訳は、中国語母語話者や日本語母語話者にとっては甚だ強い違和感を与えることだろう。というのも以下のような故事成語の存在が障壁となるからだ。

井鼃以不可語海

せいは以て海を語るべからず(井の中の蛙、大海を知らず)

『荘子』秋水

漢籍文化の影響下にある中国人や日本人は「小さな池にいる魚の方が自分に誇りがあることでしょう」と褒められても、ことによると「これは『カエル』扱いをされて軽蔑されているのでは?」と誤解しかねないように思われます。

中国語話者にとっての「鶏口牛後」の類語かもしれない格言

寧當雞頭、不做鳳尾

鳳凰ほうおうの尾であるよりも、むしろ鶏の頭でありたい」

(出典不明)

しかし、この語を縮めた「鶏頭鳳尾」の語には

「ことの始めは地味に貧弱に出だしても、終わりは華やかに立派になること。」

「禅語墨場必携 : 心を育てる言葉を書く」日貿出版社, 2004

という幾分か異なる解釈が添えられており、安易に同義の故事成語として扱うことを躊躇わせるところがある。

場面

蘇秦そしんしんに仕えようとするかん宣王せんおうを、説き伏せて六国で同盟して秦に対抗する合従がっしょうに加えようとしたときに、引用したことば。

三省堂「366日の中国名句辞典」

原文と出典

原文

寧為鶏口、無為牛後。

出典

『史記』蘇秦列伝

記事の着想

この記事は三省堂「366日の中国名句辞典」から着想を得た。

書店で目にして、この赤い表紙と黄色の帯の組み合わせからスペインを連想する前に中国を連想するほどには中国は日本の隣国なのだ。

この本からは過去2回の記事で着想を得た。

正月に、この一句を挙げてくる三省堂は、さすがだな、と思わされた。
三が日の過ぎた仕事始めにこの一句を挙げてくるあたりも、三省堂はさすがだ。

ではその後の3日間、どんな名句が紹介されていたか。

1月5日

読書は簡要かんようおもむき、言説は雑冗ざつじょうを去る

北宋、欧陽脩詩「送焦千之秀才」

1月6日

恒産有る者は、恒心有り。恒産無き者は、恒心無し

『孟子』滕文公・上

1月7日

一翳いちえいまなこに在れば、空華くうげ乱墜らんつい

『景徳伝灯録』十

これも痛恨の手抜かりであった。特に「言説は雑冗を去る」などは、まさに私に向けて釘を刺すような名句であった。いつか改めて扱いたい。

他方「一翳眼にあれば空華乱墜す」というのは、ちょっと網膜剥離の患者さんの飛蚊症の話のような感じがして少し落ち着かない印象を受ける。しかし、なかなかどうして、日本中世の軍記物語文学の代表作の一つ「太平記」などに引用例があるとおり、一時代には今よりずっと人口に膾炙した名句であったと見受ける。

今日のグラフィックについて

アイキャッチ画像はAdobe Fireflyに以下のプロンプトを与えて導いた。

大きな牛の集団の末尾で後塵を拝している人と、小さな鶏の群れの先頭に立って陣頭指揮をしている人とを、比較する。

しかし見る限り「比較する」というニュアンスは汲んでもらえなかったらしい。またウシさんの姿も残念ながら見当たらない。さばかりかニワトリさんが雄飛しておられる。なんだか威勢が良くて嬉しい。

惜しくも採用から漏れたグラフィックには以下のカットもあった。同じ文章から生成された回の所産だ。

何となく洒落た帽子をかぶった人物に心が動いたけれど、前へ歩いていく様子が感じられなかったので採らなかった。

ちなみに

鶏口牛後

などという直截なプロンプトを与えて実行すると、どういうわけかバイオテクノロジーを濫用した結果を糾弾するような恐るべきキメラを描いて寄越すので大いに困った。ウシの唇にニワトリの嘴が移植されているような感じの可哀想な画像であった。あぁいうのは心臓に悪いので勘弁してほしい。

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